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「驚異のスーパー・インテンシブ日本語コース」後編

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      #忘れられないあの教室 #マレーシア #2010 #HOSHI TORU 忘れられないあの教室⑷ 「驚異のスーパー・インテンシブ日本語コース 」後編 IBT 予備教育!それは日本の某私立大学( T 大学)が設立母体となって KL のど真ん中に立ち上げた、主に日本の大学へ留学する若者たちの日本語および基礎科目を教える日本語プログラムである。学校名に設立母体の大学名を冠して T …マレーシア日本語学院( Insutitut   Bahasa Teikyo )という。しかも KL 日本人会の建物の中にあるため、日本人会運営の日本語学校と勘違いされたりしている。(良い意味で?) 私は 2008 年の、2度目のマレーシア滞在の時にその学校に非常勤講師として参加させていただいた。前回のマレーシア赴任時に出会った(同業の)妻との間に 2 子を設け、今回は家族 4 人での滞在だった。それまで(図らずも)子育てに追いやられていた妻が『今度は私の番!』とばかりにマレーシア教育省の教員研修の専任ポストに就き、私の方は幼い娘たちを引き連れて子連れ日本語教師として日本語を教えることになった。主任の先生に、『うちには非常勤は要らないのよ』と言われながら、その学校の立ち上げ時の功労者でもあった友人の口利きで、無理やり非常勤で入れてもらった。子連れ教師には常勤は無理なのだ。 しかし、ほどなくして、と言うか初出勤の当日のうちに、なぜ『うちには非常勤は要らない』のかと言う理由が判明した。そのコースは、とにかくものすごく集中的な「集中プログラム」なのであった。授業は月火水木金の週5日で毎日午前 10 時から午後5時 45 分までの6コマ授業であった * 。まあ、それだけなら留学予備教育である以上、当然と言ってもよい程度の集中カリキュラムである。通常、週20時間授業を行う日本国内の日本語学校のカリキュラムも「集中日本語コース」と呼ばれることもある。 *ただし、イスラムの安息日の金曜は朝 9 時から午前のみ 3 コマ授業。理系 / 文系によって違うが、日本語の授業は初年度で週18コマ、2年度は 13 コマ程度で残りは数学と日本事情および社会 ( 文系 ) 、または数学、日本事情、物理+生物および化学 ( 理系 ) の授業が行われていた。現在の同校のカリキュラムによると、 4 月開講、

「驚異のスーパー・インテンシブ日本語コース」前編

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      #忘れられないあの教室 #マレーシア #2010 #HOSHI TORU 忘れられないあの教室⑷ 「驚異のスーパー・インテンシブ日本語コース 」前編 海外の数か国で日本語教師をしていたと話すと、間違いなく次のような質問が返ってくる。『いろいろな国に住んでみて、どの国が一番よかったですか?』・・・これについては、何をもって「よかったですか?」と聞かれているのかにもよるが、一つ断言できることは、どの国もそれぞれ良いのである。まず、どの国にも超絶おいしいものがあったし、どの国にも忘れられない人との出会いがあったし、学生たちの目の輝き、すれちがう人々の笑顔、他では得られないやすらぎ、目を見張る風景、カラフルでスパイシーな香りや文化や暮らし…が満載なことは言うまでもない。それでもなおかつ、『どの国が一番よかったですか?』としつこく聞かれたら、ひと頃までは、『やっぱりマレーシアかなあ。』と答えていた。「ひと頃までは」と、あえて断るには理由がある。 実は、マレーシアには 1995 年ごろと、 2009 年ごろと 2 回住んでいる。その 15 年の間にマレーシア、ことに首都クアラルンプルは目を見張るような変貌を遂げてしまったのだ。これは、稀代の政治リーダー、マハティール元首相 * の唱える『ビジョン 2020 』 * が、多少の紆余曲折はありながらも、目覚ましい成果を上げつつあるということで、まことに喜ばしい事ではある。しかし、 90 年代ごろには、マレーシアはまさに我々が夢に思い描くような「風そよぐ南の楽園」だったのが、 2000 年代後半には首都 KL (クアラルンプル)には高層ビルが立ち並び、シンガポール…、いや東京や大阪とも見まごうような「近代都市」に(あえて言えば) 成り下がっていた のだ。      90 年代のあの頃、私が抱いていたマレーシアのイメージは、「朝、地平線から日が昇り、夕方、水平線に陽が沈むまで、 1 日の時間はゆったりと何事もなく過ぎてゆく。人々はせかせかと走り回ることはなく、すれ違った人と楽しく挨拶をかわし、昼食後の昼寝から覚めれば、熱帯樹の木陰で仲間とおしゃべりをする。夕方になれば、そよ風に吹かれて夕日を眺めに海岸に集まる。急ぐことは何もないのだ。だって、森へ行けばいくらでもココナツやパパイヤやドリアンの果実があるのだから。・・・

「日本語教師、危機一髪」3

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     #忘れられないあの教室 #バングラデシュ #1990 #HOSHI TORU 忘れられないあの教室⑶ 「日本語教師、危機一髪 」3 さて、私が日本語を教えていた「ダッカ大学現代言語研究所」は、「 現代 言語研究所」という名前から来るイメージとは裏腹に、きわめて前近代的な施設であった。冷房設備がないなどの問題はやむを得ないにしても、たとえば、ある日聴解のテープ教材を使おうとして、カセットプレイヤーを自宅から持参し、いざ授業の準備をしようとしたが、なぜかカセットプレイヤーが設置できない。なぜできないのか、それは教室中探しても電源の差し込みが見当たらなかったからであった。見当たらないだけではなく、存在しなかったのである。つまり、ダッカ大学の、少なくとも現代言語研究所のどの教室においても、電気機器を用いた語学の授業というものは想定されていなかったわけである * 。 *研究所には旧教室を改装して作った視聴覚教室 * が 1 室あった。これは唯一電源のある教室で VTR セット 1 台が設置してあったが、通常の授業には使われていなかった。ちなみに、ある時、現代言語研究所長が誇らしげに、しかし何か含みのある口調で「日本政府は我々の研究所に LL 教室を贈ってくれた。素晴らしい設備だが、今は管理する技師がいないので使われていない。階上の視聴覚室にあるから見てくるが良い。」というので、見に行った。その薄暗い教室の扉を開けて目に入ったのは、無残に打ち捨てられて積み上げられた LL ブースの山だった。それは、あたかも映画『猿の惑星』のラストシーンの廃墟のようでもあり、見る者を戦慄させる光景だった。           全般にキャンパス内の建物の状態は老朽化の一語に尽き、雨季の長い高温多湿の気候に晒されながら、ほとんどの建築物は耐用年数の限界に達していたのではないだろうか。しかも、それらの施設の補修に対する予算措置はまずとられていそうもなかった。おまけに十数年来の「戦乱」によって、校舎は荒れ放題だった。教室や研究室の窓ガラスの破損は著しく、窓という窓にはガラスがないと言っても過言ではなかった。それが長年放置されていることが室内の老朽化を一層甚だしいものにしていた。 最も閉口したのはキャンパス内の衛生環境である。研究所には専門の清掃員がいないが、用務員として働く老爺がいて、簡単な掃

「日本語教師、危機一髪」2

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    #忘れられないあの教室 #バングラデシュ #1990 #HOSHI TORU 忘れられないあの教室⑶ 「日本語教師、危機一髪 」2 ダッカでの生活に関しては、いろいろな事がありすぎて 1 回や 2 回ではとうてい書ききれない。ダッカに滞在した2年間に私の身に起こった事や目の当たりにした事をすべて語りつくすには相当な紙数を要するだろう。ともあれ、ダッカの町は、摩訶不思議な「あり得ないこと」に充ち溢れた、まさに(皮肉な言い方ではあるが)“ワンダーランド”なのであった。 毎日の通勤時、自家用車で走行中にいろんなものが目に入る。(若干ためらいつつ) 1 例を挙げれば、日常的に死者のいる風景というか、日本では一生のうちにほとんど目にすることの無い情景、死体や、生きてはいるが異様に変形した肉体、人によって部位は異なるが、日本ではもう死語になってしまった種々の差別用語を用いてしか言い表せないような肉体が散在しているのである。それはイギリス植民地時代に虐待された人、パキスタン時代の内戦や、独立後の政情不安による治安の悪化、イスラムとヒンドゥーの対立による宗教紛争、飢餓と貧困による弱肉強食の略奪や暴力、それに加えて社会のインフラの未発達と国民に対する危機管理政策の不在による事故や自然災害、疫病等々の犠牲者たちなのだ。こういう現実を見慣れていない日本人にとっては、つい目を背けてしまう衝動に駆られるが、目を背けることは、おそらく相手の人間としての尊厳に目を背けることになるのではないかという強い異議申し立てが心の中で起こり、仕方なく、それら(彼ら)を直視することになる。この国に住んでいると、自我の内に、言わば「モラルの闘い」ともいうべき葛藤が起こるのだ。 その葛藤は、交差点で車を停止するときにピークに達する。赤信号で停車した車をめがけて大勢の人々が一瞬にして、どこからともなく集まってくる。その人たちがわれ先に車窓から手を突き入れてボクシーシ * をねだってくるのだ。中には「腕のない手」を差し入れてくる人もいる。小学校(に行けたなら)低学年ぐらいの女の子がいる、赤ん坊を連れた貧しい母親がいる。(噂によると、そうした赤ん坊は多くの場合、実の我が子ではなく、物乞いの小道具として誰かから借りてきたものだという。)ただし、彼らがいかに孤児や貧しい母親を装ったとしても、彼らが貧しく、明

「日本語教師、危機一髪」1

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   #忘れられないあの教室 #バングラデシュ #1990 #HOSHI TORU 忘れられないあの教室⑶ 「日本語教師、危機一髪 」1                                                                                                                                                  写真:中川潤 海外で日本語を教えるということは、「海外で人間としての生(人生)を生きる」ということでもある。つまり、日本語教師である前に、また日本人である前に、一人の生身の人間として生きるということだ。これは実はそれほど軽い事ではない。「そんなこと海外でなくても同じ」なのは勿論だが、海外で異文化の中に身を投じると、そのことが生々しく、くっきりと浮き出て見える。特に「異文化度」が高ければ高いほど、「人の生を考える」ことを否が応でも強いられる瞬間というものが増える。 国際交流基金で2年間の研修を受け、修了試験に合格し、ついに憧れの海外派遣専門家としての第1歩を記すべき任地が言い渡されるという運命の日の前夜、奇妙な夢を見た。『派遣先が イスラマバード に決まった』という夢だった。何の文脈もプロットもなく、ただ、「派遣先がイスラマバード」という告知のみが天の声のように聞こえてくるという、実に奇妙な夢だった。しかも、「イスラマバード」という地名は以前どこかで聞いたことがあるにしても、直近はおろか、それまでの自分の人生で「イスラマバード」のことなんて考えたこともなかったのである。朝目覚めたとき、これはきっと正夢のお告げに違いない。今日は面談で「派遣先はイスラマバードになった」ということを言い渡されるに違いないと思った。それにしても、「イスラマバードってどこだ?」という疑問をまず解消しなくてはと思い、家にあった世界地図帳を開いた。何分、インターネットもスマホもない時代のことだ。そして、イスラマバードがパキスタンの首都であるということを生まれて初めて知った。 その日、国際交流基金本部における面談で担当者の口から発せられた第一声は、『星さんには、ダッカへ行っていただきたいんです。』という言葉だった。その時、思わず私の口から出た言葉は『パキスタンですか。』だった。担

「日本語教師の夢の授業」

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  #忘れられないあの教室 #韓国ソウル # 2000 年 # HOSHI TORU 忘れられないあの教室⑵ 「 日本語教師の夢の授業」  唐突ですが―日本語教師も夢を持っていいのではないでしょうか。   仮にだれか日本語教師をつかまえて、「もし、どのようにでも思い通りの授業ができるとしたら、どんな授業をしてみたいか」のような問いを投げかけてみたら、どんな答えが返ってくるだろうか。おそらくは、「学習者のニーズを的確に把握し、学習者の自律を助け、効果的な指導技術を身につけ、楽しい授業を心がける・・・」みたいな、「良い教師」としての到達目標を高々と掲げる人が多いのではないか。『つまんねえ奴だなあ。』とどこかの 5 歳児 * に言われそうだが、かく言う筆者も、あらたまってそんな質問をされれば、同様に「つまんねえ」答えをしてしまいそうである。もっと裃を脱いで、肩の力をぐっと抜いて、ありのままの自分をさらけ出して、生徒/教師の垣根を取っ払って対等に楽しめるような授業があったら、なんと楽しいことだろう。  *NHK総合テレビ放送の『チコちゃんに叱られる』のメインキャラクター「チコちゃん」の決め台詞。 そこで、そのような夢の体験がなかったか、自分の過去の経験を紐解いてみると、それにかなり近い実践現場が、実はあったのである。それは今を去ること 20 年余り前、ミレニアム元年に湧く、韓国はソウルでのことである。 ソウルの 鍾路 ( ちょんの ) 区には、かつて日本大使館に付設された在韓国日本大使館公報文化院、通称『 日本 ( イルボン ) 文化院 ( ムナウォン ) 』 * という施設があった。いやいや失礼、公報文化院自体は今でも現存しているのだが、そこで行われていた日本語講座はすでに廃止されて久しいのである。公報文化院はその名の通り、韓国における日本文化情報の発信源であったわけだが、ちょうどサッカーの日韓ワールドカップが行われた 2002 年に国際交流基金のソウル文化センターができてからは、さまざまな企画で一世を風靡したかつての栄光は薄れ、基金センターとの微妙な住み分けを余儀なくされているらしい。          *現在の公報文化院については<https://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=2036>参照

「人生で最初の日本語授業」

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#忘れられないあの教室 #アメリカ #1980 #HOSHI TORU 忘れられないあの教室⑴ 「人生で最初の日本語授業」 日本語教師には(というか、どんな教師にも)人生で最初に担当した授業というものがあるはずである。私の場合は全くひょんなことから日本語教師になってしまったのだが、まだ日本語教師養成講座も普及しておらず、日本語教師というものが今ほど認知されていなかった 1980 年代には、私と同様「ひょんなことから」日本語教育の道に足を踏み入れてしまった(?)先生方も少なくなかったと思われる。 さて、今回がこのブログの第1回なので、私がいかにして日本語教師のキャリアを始めたのかといういきさつを、自己紹介もかねて書いてみたい。今を去ること40年前、1980年台の初頭のことである、アメリカに留学(遊学?)してサンフランシスコに滞在中、何か自分にできるアルバイトはないか探していた時、「大学で日本語を教えるクラスがあるから覗いてみれば」と知人に言われ、行ってみることにした。そうか、日本語を教えることなら自分にもできそうだという(今でも)たいていの日本人なら持ちそうな半端な確信に導かれてその日本語クラスをのぞいてみることにした。今思えば、これが、その後 40 年にもおよぶ私の日本語教育のキャリアのいわば源流ということになるのだ。 ただし、日本語教育というものに触れたのは、これが最初ではなかった。その時代からさらに遡ること何年前だったか、まだ学生で外国語(主にヨーロッパ語)オタクだった自分は英独仏語をかじっただけでは物足りなく、当時の日本では(私の知る限り)学校なんて存在しなかったイタリア語の短期講座を受けたり、果てはエスペラント語研究会の門をたたいたりしたが、自然言語ではないエスペラントについては言語文化的背景のない人造語の無味乾燥さに辟易した記憶がある。 そんなとき、ふと街を歩いていて、確か「パナリンガ研究所」とか書いてある看板を見つけ、一体なんだろうと思い中に入ってみた。実はこれが今でいう、日本語教師養成講座の先駆け的な存在だったわけだが、今も同研究所が活動されているのかは寡聞にして知らない。その教室で教えられていたのは、英語を媒介として日本語を教える教授法で、受講者の名前も本名ではなく、スーザンとかマイクとか英語名を付けることになっていた。私は、その講座