「日本語教師、危機一髪」1

  #忘れられないあの教室 #バングラデシュ #1990 #HOSHI TORU

忘れられないあの教室⑶「日本語教師、危機一髪」1

                                                                                                                                                 写真:中川潤

海外で日本語を教えるということは、「海外で人間としての生(人生)を生きる」ということでもある。つまり、日本語教師である前に、また日本人である前に、一人の生身の人間として生きるということだ。これは実はそれほど軽い事ではない。「そんなこと海外でなくても同じ」なのは勿論だが、海外で異文化の中に身を投じると、そのことが生々しく、くっきりと浮き出て見える。特に「異文化度」が高ければ高いほど、「人の生を考える」ことを否が応でも強いられる瞬間というものが増える。

国際交流基金で2年間の研修を受け、修了試験に合格し、ついに憧れの海外派遣専門家としての第1歩を記すべき任地が言い渡されるという運命の日の前夜、奇妙な夢を見た。『派遣先がイスラマバードに決まった』という夢だった。何の文脈もプロットもなく、ただ、「派遣先がイスラマバード」という告知のみが天の声のように聞こえてくるという、実に奇妙な夢だった。しかも、「イスラマバード」という地名は以前どこかで聞いたことがあるにしても、直近はおろか、それまでの自分の人生で「イスラマバード」のことなんて考えたこともなかったのである。朝目覚めたとき、これはきっと正夢のお告げに違いない。今日は面談で「派遣先はイスラマバードになった」ということを言い渡されるに違いないと思った。それにしても、「イスラマバードってどこだ?」という疑問をまず解消しなくてはと思い、家にあった世界地図帳を開いた。何分、インターネットもスマホもない時代のことだ。そして、イスラマバードがパキスタンの首都であるということを生まれて初めて知った。

その日、国際交流基金本部における面談で担当者の口から発せられた第一声は、『星さんには、ダッカへ行っていただきたいんです。』という言葉だった。その時、思わず私の口から出た言葉は『パキスタンですか。』だった。担当官はニヤリと意味深な微笑みを浮かべ、『バングラデシュですよ。』と訂正した。

パキスタンとバングラデシュはインドを挟んで西側と東側に分かれた因縁浅からぬ兄弟国家(姉妹国家?)である(…と断定すると両国の人からクレームがつくかもしれないが)。一言で言うと、1947年にインドがイギリスから独立する際に、西側のイスラム教徒地域がパキスタンとして分離独立し、その後1955年にイスラム教徒が多数を占める東ベンガル地域を東パキスタンとして取り込んだ。しかし1971年に、西側にあるパキスタン中央政府への反発から東パキスタンがバングラデシュとして独立した。バングラデシュの人々によると、この独立は西側パキスタンの言語であるウルドゥー語による国語政策からベンガル語を守るための「言語独立戦争」の勝利を意味するという。なるほど、バングラデシュの人々が母語ベンガル語に対して持つ愛情と誇りは並大抵のものではない。実は先日、『タゴール・ソングス』*という日本人の女性監督によるドキュメンタリー映画を見た。この映画を見ると、このアジア人初のノーベル文学賞を受けたベンガルの詩人、ラビンドラナート・タゴール*が書いた多くの歌は、なによりもベンガル語で書かれたがゆえに国家の誇りとなっていることがよくわかる。代表作のひとつ、『わが黄金のベンガル』は、他ならぬバングラデシュの国歌にもなっている。

*『タゴール・ソングス』:佐々木美佳監督第1作となる東インドおよびバングラデシュに取材したドキュメンタリー作品。佐々木監督は東京外国語大学でヒンディ語、ベンガル語を学んだ後、現在インド、コルコタの大学にて映画を専攻中。映画の概要は右記オフィシャルサイト参照。http://tagore-songs.com/

*ラビンドラナート・タゴール:「ベンガルの詩聖」とうたわれた詩人。1913には詩集『ギタンジャリ』が評価され、アジア人初のノーベル文学賞を受賞。インド、バングラデシュ両国の国歌の作詞者でもある。タゴールの詩に曲を付けたいわゆる「タゴールソング」は時代を超えてベンガルの人々に歌い継がれている。

さて、ダッカへ赴任せよとのオファーをいただいた私は、そのオファーを「受けるべきか、受けざるべきか」について、ハムレットばりに三日三晩悩んだ。その当時の日本人の頭の中では、バングラデシュという国は『黄金のベンガル』とは程遠く、「毎年洪水で何万人もの死者が出る国」、「世界の(アジアのではなく世界の)最貧国」、「飢饉と政情不安の国」といった負のイメージしかなかった。私が「派遣先がバングラデシュになった」と言うと、周囲からは「なぜそんなところへ行くのだ」という否定的な反応しかなかった。特に、当時勤務していた日本語学校の経営者からの「行くな、行くな」という圧力は執拗だった。だが、周囲が引き留めにかかったころには私は既に心を決めていた。

ご存じの方もおられると思うが、1980年代後半には日本で日本語を学ぶ就学生*のなかでもバングラデシュ人はかなりの比率を占めていた。私の日本での教え子の中にも何人もいたが、中で特に心優しく、人懐っこいアラウッディンという学生は、私がダッカへ行くと言うといたく喜んでくれて、その日から毎日放課後にベンガル語を教えてくれることになった。ただしその教え方は残念ながらコミュニカティブとは言い難く、毎日ベンガル文字を一文字ずつ何度も書かせられただけで、その先へは一向に進まない。92字あるという基本文字をすべて書き終わるまで(結局終わらなかったが)単語やフレーズも教えてもらえないので、ベンガル語運用力は全く身につかなかった。アラウッディン君によると(その後、何人ものバングラ人から耳にタコができるほど聞かされたのだが)「ベンガル文字は地球上のあらゆる言語を書き表すことができる」最も優れた文字体系なのだそうだ。

*就学生:日本語学校で日本語を学ぶ外国人学生はかつて「就学生」と呼ばれ、大学生、大学院生、専修学校生を対象とした留学生政策の対象外とされていた。法務省によると、2007年末の外国人登録者のうち、「留学」は約13万2千人、「就学」は約3万8千人だった。しかし、2008年に福田康夫内閣によって打ち出されたいわゆる「留学生30万人計画」の円滑な推進に向けて「留学生の安定的な在留のため」20107月に在留資格「留学」と「就学」が一本化された。なお、「留学生30万人計画」は、おそらくこの一本化の効果もあり、目標の2020年より1年前倒して2019年に達成された。

さて、周囲の反対を押し切って、いよいよダッカに向けて飛び立った時には、実は私の中には様々な人から吹き込まれた(責任転嫁?)、やれ「彼らは計算高く油断ならない」だの、「日本人とみれば何かうまい汁を吸おうと寄って来る」だの、「親しげに近づいてきたら要注意」だのという、(今思うと、実に恥ずかしく情けなく、悔恨の情しかないのだが…)さまざまな偏見や警戒心が充満していた。ともあれ、当時「オーバーブッキングが普通で、座席に座れない乗客が通路を縦断して張られた綱に掴まってしゃがんでいる」と聞かされていたビマン・バングラデシュ航空でバンコク経由ダッカ入りした。通路には綱は張られておらず、座席のない乗客もいなかった。(ちなみに、トランジットのため、初めて立ち寄ったバンコクの夜の通りは「なんと暗いのだろう」という印象だったのだが、その後、ダッカの夜を知って以来、休暇でダッカを旅立ち、再び立ち寄ったバンコクは実に明るく光り輝いていた。)ついにダッカに到着となって、機体が降下を始めたとき、眼下に広がった風景は一面水が張られた巨大な水田のような情景だった。私は、こんなところに着陸するだけの地面があるのだろうかと目を凝らした。数分の後、その心配は杞憂であったことが判明し、私は無事にダッカの地に降り立った。

現在のダッカ空港はおそらく随分様変わりしていると思うが、私が赴任した時のダッカ空港の到着ロビーは、たしか大きな土間のように地面がむき出しになっていたと記憶している。その土間を遠巻きに囲むように無数の人々がすし詰め状態でひしめきあってこちらを見ていた。彼らすべての視線の先には、今ゲートから出てきた自分がいる。これは一体どういうことか。東の果ての日本からはるばる「文化使節」としてやってきた私を一目見るために集まった人々か、あるいは赴任先のダッカ大学が学生や教職員を動員して出迎えてくれているのだろうか。それは、あまりにも誇大妄想的な錯覚ではあったのだが、何も知らずにかの地に降り立った新米の派遣専門家にとっては全く理解に苦しむ光景であった。後になって理解したことだが、そもそもかの国は人口密度が異様に高く、特に空港のような人の集まる場所では人々がひしめきあう情景というのは通常の事であり、それらの人々は通常、仕事とお金はないが時間と好奇心はいくらでもある人々だということなのであった。

そして、その翌日からは、さらに多くの多様な人々がひしめきあうダッカの町中の情景を目にすることになるのだ。

コメント

  1. FBから飛んできました。続きを楽しみにしています。

    返信削除
    返信
    1. ありがとうございます!近日中に後編を公開します。

      削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

「驚異のスーパー・インテンシブ日本語コース」前編

「驚異のスーパー・インテンシブ日本語コース」後編

「人生で最初の日本語授業」