「驚異のスーパー・インテンシブ日本語コース」前編


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忘れられないあの教室⑷「驚異のスーパー・インテンシブ日本語コース」前編



海外の数か国で日本語教師をしていたと話すと、間違いなく次のような質問が返ってくる。『いろいろな国に住んでみて、どの国が一番よかったですか?』・・・これについては、何をもって「よかったですか?」と聞かれているのかにもよるが、一つ断言できることは、どの国もそれぞれ良いのである。まず、どの国にも超絶おいしいものがあったし、どの国にも忘れられない人との出会いがあったし、学生たちの目の輝き、すれちがう人々の笑顔、他では得られないやすらぎ、目を見張る風景、カラフルでスパイシーな香りや文化や暮らし…が満載なことは言うまでもない。それでもなおかつ、『どの国が一番よかったですか?』としつこく聞かれたら、ひと頃までは、『やっぱりマレーシアかなあ。』と答えていた。「ひと頃までは」と、あえて断るには理由がある。

実は、マレーシアには1995年ごろと、2009年ごろと2回住んでいる。その15年の間にマレーシア、ことに首都クアラルンプルは目を見張るような変貌を遂げてしまったのだ。これは、稀代の政治リーダー、マハティール元首相*の唱える『ビジョン2020*が、多少の紆余曲折はありながらも、目覚ましい成果を上げつつあるということで、まことに喜ばしい事ではある。しかし、90年代ごろには、マレーシアはまさに我々が夢に思い描くような「風そよぐ南の楽園」だったのが、2000年代後半には首都KL(クアラルンプル)には高層ビルが立ち並び、シンガポール…、いや東京や大阪とも見まごうような「近代都市」に(あえて言えば)成り下がっていたのだ。

    

90年代のあの頃、私が抱いていたマレーシアのイメージは、「朝、地平線から日が昇り、夕方、水平線に陽が沈むまで、1日の時間はゆったりと何事もなく過ぎてゆく。人々はせかせかと走り回ることはなく、すれ違った人と楽しく挨拶をかわし、昼食後の昼寝から覚めれば、熱帯樹の木陰で仲間とおしゃべりをする。夕方になれば、そよ風に吹かれて夕日を眺めに海岸に集まる。急ぐことは何もないのだ。だって、森へ行けばいくらでもココナツやパパイヤやドリアンの果実があるのだから。・・・」というのは若干誇張したイメージだが、そんな幻想に浸ってしまうくらい時間がゆっくりと進むのだった。

       

実際は、せかせかと走り回らないのはおっとりしたマレー系の人々で、中華系のビジネスマンはてきぱきとビジネスに勤しみ、インド系の労働者は勤勉に仕事をこなていた。マレーシア政府が1970年代から実行してきたマレー人優遇政策(『ブミプトラ政策』*)は差別政策という批判も根強いが、この国の発展はこの3者の絶妙なバランスで成り立ってきたのだった。

*マハティール・ビン・モハマド 19812003年および、201820年の2度、マレーシア首相を務めた。親日家として知られ、90歳をすぎても毎年のように訪日している。「日本をアジアの経済モデルとせよ」という主張を込めた『ルックイースト政策』はマレーシアでの日本語教育の展開に大きな影響力を持った。

*ビジョン2020 当時のマハティ―ル首相が1991年に行った講演で、以前のブミプトラ政策を修正して、民族問わず全てのマレーシア国民が豊かな生活をできるようにすること、2020年までに、マレーシアを国民の統一と社会のまとまり、経済、社会正義、政治的安定、政府のシステム、生活の質、社会的・精神的価値観、国民としての誇りと自信などの点において全面的に発展した先進国とするという目標を掲げた。

*ブミプトラ政策 華僑の経済的優位に対抗し、マレー人の地位向上を図るためにマレーシア政府が1971年から始めたマレー人優先政策「ブミプトラ」とは「土地の子」と言う意味で、先住民族であるマレー人のほか、オラン・アスリと呼ばれる土着の少数民族も含まれる。マレー系7割、中華系2割、インド系1割(正確には65%:26%:8%)という人口比は国家公務員の採用や、国立大学の学生数にも反映されており、当時私が日本語を教えていたマレーシア工科大学の高専予備教育(『PPKTJ』)でも学生の民族比率がその通りになっていた。

 

このマレーシアの多民族共生社会*こそがマレーシアの地に素晴らしい色どりをもたらしており、街を歩いても衣食住すべてにわたって各民族の個性の主張と混淆に目を奪われるほどである。イスラム正月、中国正月、インド系の正月に太陽暦の正月と、年に4回もの正月を国を挙げて祝うマレーシアと言う国の魅力については、いくら書いても書ききれない。特に1990年代のクアラルンプルは、自分にとって、(生涯の伴侶に出会ったという件は措いておいても)それはそれは美しい思い出がいっぱいの、天国にいちばん近い土地だった。私はマレーシア生活での日々の思いを、当時テレビでよく流されていたSajatera Malaysia*という国民歌のメロディーに載せ歌詞を作り、卒業生の送り出しに教師全員で歌った。次のような歌詞である:

常夏の町に立つ 椰子の葉にそよぐ風  優しい人たち マレーシアの思い出 

雨の樹の葉が目覚め 街角に影落とす  太陽の子供たち 光とたわむれ・・ 

今も私の心の中に あなたたちがいる  さよなら!さよなら! 夢を忘れずに 

光る河、光る海 ゴムの樹の続く道  青空に架かる虹 私のマレーシア

      

多民族共生について他ならぬマハティ―ル元首相の示唆に富む発言が載っている記事を偶然に見つけたので、以下に引用する:

『マレーシアのマハティール元首相(97)が来日し、東京都内の日本外国特派員協会で24日記者会見した。移民問題を中心に話し、多くの民族が共存するマレーシアを例に挙げて、「世界が抱える共通の課題の一つの解決策が移住であり、将来、ほとんどの国がマレーシアのようになるだろう」と述べた。マハティール氏は、人口爆発と少子化という正反対の動きが地球上で進んでいることに触れ、「先進国では人が減る一方、途上国では人が増え、問題も山積している。これに対する一つの簡単な解決策は、仕事の多い先進国に途上国から移住することだ。これは世界の問題だ」と話した。』        

2023524 1628分配信朝日新聞デジタル記事より https://www.asahi.com/articles/ASR5S5DPFR5SUHBI020.html

 "Sajatera Malaysia":毎年のムルデカ・デー(マレーシア独立記念日)には新しいバージョンが放送される。Youtubeで検索すれば、無数のバージョンを視聴できるが、以下に2つの動画を紹介する。前者はマレーシアの全寮制の中等教育(Residential School)の学生たちによるもの。Residential Schoolは、JOCVによる日本語教育が行われたこともあり、私たちには馴染み深い。後者はマレーシアの国民的歌姫シーラ・マジッドによる熱唱。冒頭にマハティ―ル元首相の(おそらく2回目の首相就任時の?)演説がフィーチャーされている!

https://youtu.be/NPKBHzklHkc

 https://youtu.be/sfKhOVALlHk


 また前置きが長くなって本題に入れなくなると困るので、この件に関しては、筆者などより1000倍もマレーシアの魅力に取りつかれてしまった正真正銘の「マレーシアの恋人」伴美喜子さんに筆を譲りたい。伴さんは私がマレーシア工科大学にいた当時、KLの国際交流基金事務所の副所長として赴任されていた。それが帰国後、国際交流基金を退職され、まるで一旦離れた恋人に已むに已まれず会いに戻るようにマレーシアに舞い戻り、独学でマレー語と日本語教育を学び、マレーシア国民大学で日本語を教えながら、自身のウェブサイトMikiko Talks on Malaysia*を開設し、マレーシアへの日々の思いを綴ったのだった。その100篇以上におよぶエッセイの一部はその後、『マレーシア凛々』と言う本として出版された。それらのエッセイはその当時のマレーシアを知る人間には宝物のような「マレーシア追想」であり、私などは11篇大切に、文字通り「紐解く」ように拝読している。ちなみに、その本のエピローグに上掲の私の歌詞を取り上げていただいたのは光栄の至りである。(手前味噌ですね。ごめんなさい)

*『Mikiko Talks on Malaysia』下記リンクを参照。 

  https://ban-mikiko.com/malaysia

 

さて、ここで一旦、時は降って2011年、日本に帰国後いくつかの日本語教育の現場を渡り歩いた私は、石川県の金沢で同県の日本語教育コーディネーターのお手伝いをさせていただいていた。ある時、短期留学プログラムで来日していたアメリカの大学生達を引率して金沢大学主催のレセプションに参加した折のこと、華やかなテーブルを囲んだギャラリーの中から、そろりそろりと(まるで「からくり人形」のようにぎこちなく)現れ出でた人影があった。その人影がにわかにこちらに近づいて来るや、『せんせい・・・』と恥ずかし気にささやいた。顔を見ると、おおなんと!どこかで見覚えのあるマレー系男子。数十秒後に頭の中のミッシングリンクがつながり、彼がマレーシアでの予備教育プログラム(マレーシア工科大学ではなく2009年当時所属した日本語学校)の教え子であることが判明した。名前はたしかルディだったか、クラスの中でも結構印象に残っている学生だ。聞けば、他に同じクラスだった男女1名ずつも同期で金沢大に留学しているという。3人共、人柄も成績もとても良かった印象がある。

 彼が再びギャラリーの中にまぎれ、私が一人になると、今度は金沢大で日本語授業を担当されている日本人の先生お二人がやってきて、『いやあ星先生はやっぱり素晴らしい先生でいらっしゃったんですねえ!』と、とんでもないほめ言葉が飛んできた。『ルディ君たち、とてつもなく優秀だと思ったら、やっぱり先生のご指導が素晴らしかったんですね。』・・
正直、このときは教師として「天にも昇る気持ち」というものを久々に…いや生まれて初めて味わった。うむ、持つべきものは優秀な教え子である!・・・しかしながら、このエピソードにタイトルを付けるとしたら「栄光の瞬間」というよりも「幸運な偶然」の方がしっくりくる。

「いえいえ、それは私の指導の賜物なんかではないです。それは、私が非常勤で関わらせていただいた、マレーシアIBT超集中教育の驚異の徹底指導の賜物です。たまたまルディ達のクラスを私が担当していただけです。」と心の中で謙遜したが、口に出して説明するタイミングを逸した。

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