「人生で最初の日本語授業」




#忘れられないあの教室 #アメリカ #1980 #HOSHI TORU

忘れられないあの教室⑴「人生で最初の日本語授業」


日本語教師には(というか、どんな教師にも)人生で最初に担当した授業というものがあるはずである。私の場合は全くひょんなことから日本語教師になってしまったのだが、まだ日本語教師養成講座も普及しておらず、日本語教師というものが今ほど認知されていなかった1980年代には、私と同様「ひょんなことから」日本語教育の道に足を踏み入れてしまった(?)先生方も少なくなかったと思われる。

さて、今回がこのブログの第1回なので、私がいかにして日本語教師のキャリアを始めたのかといういきさつを、自己紹介もかねて書いてみたい。今を去ること40年前、1980年台の初頭のことである、アメリカに留学(遊学?)してサンフランシスコに滞在中、何か自分にできるアルバイトはないか探していた時、「大学で日本語を教えるクラスがあるから覗いてみれば」と知人に言われ、行ってみることにした。そうか、日本語を教えることなら自分にもできそうだという(今でも)たいていの日本人なら持ちそうな半端な確信に導かれてその日本語クラスをのぞいてみることにした。今思えば、これが、その後40年にもおよぶ私の日本語教育のキャリアのいわば源流ということになるのだ。

ただし、日本語教育というものに触れたのは、これが最初ではなかった。その時代からさらに遡ること何年前だったか、まだ学生で外国語(主にヨーロッパ語)オタクだった自分は英独仏語をかじっただけでは物足りなく、当時の日本では(私の知る限り)学校なんて存在しなかったイタリア語の短期講座を受けたり、果てはエスペラント語研究会の門をたたいたりしたが、自然言語ではないエスペラントについては言語文化的背景のない人造語の無味乾燥さに辟易した記憶がある。

そんなとき、ふと街を歩いていて、確か「パナリンガ研究所」とか書いてある看板を見つけ、一体なんだろうと思い中に入ってみた。実はこれが今でいう、日本語教師養成講座の先駆け的な存在だったわけだが、今も同研究所が活動されているのかは寡聞にして知らない。その教室で教えられていたのは、英語を媒介として日本語を教える教授法で、受講者の名前も本名ではなく、スーザンとかマイクとか英語名を付けることになっていた。私は、その講座のトライアルレッスンに参加したが、おそらく、自分の知っていた国文法とは似ても似つかぬ“日本語文法”との出会いに違和感があったせいで、本講座を受講することはなかった。そして渡米したころには、その講座のことはすっかり忘れ去っていた。

さて、話を戻して、SFSU(サンフランシスコ州立大学)で日本語の授業をやっているという日本人教師に、日本語の授業というのを見学させてくれと頼んだところ、二つ返事で許可が下り、かつ「アシスタントみたいな形で学生とのつなぎ役をやってくれ」みたいなことを言われた。今でいう、にわかのTAだったわけだが、結局やったことは毎日教室に座っていただけ。でも、そのおかげで、クラスの学生たちと仲良くなり、いろいろ学生たちの教師評みたいなのもどんどん入ってくる。

学生たちの中で特に親しくなったのは、ハワイ出身の日系人でマイク・タマナハという香港のB級コメディ―映画*の主人公みたいなやつだった。彼によるとハワイの日系人英語は日本語の構造を持っていて、文末に“…,what?”を付けると日本語の「~か?」になるという嘘か本当かわからないことを言っていた。すなわち、“You OK, what?”が「元気かい?」になるそうだ。彼のおじさんは市内ですしバーをやっていて、当時日本ではまだ知られていなかった本場のカリフォルニア巻*をごちそうになったりした。そのおじさんの息子、つまりマイクの従兄弟はまだ就学前なのに食事はハンバーガーしか食べず、超肥満体型だった。マイクはよくその男の子のお守り役を仰せつかって、私もたびたび付き合わされたが、なるほどハンバーガーさえ与えておけばおとなしい子だった。マイクには、香港のB級映画さながら多くの個性的な従兄弟たちがいて、その中の一人が自動車修理工場をやっていた。私の1970年物のフォード・マーベリックが不調なのでその従兄弟に見てもらったところ、エンジンにひびが入っていて、「もう売るか捨てるかしかない」という診断だった。それ以来、マイクは私の車に乗るたびに「じきに爆発するぞ」と脅した。

*香港のB級コメディ映画:1980年ごろに隆盛を極めた香港映画にはブルース・リーに代表されるカンフー映画と、そのパロディーのようなコメディー映画の2大潮流がある。「香港のB級コメディーの主人公」という表現は、あくまでも私個人の主観的イメージに過ぎないかもしれないが、一言で言うと、一見、際立った特徴のない普通の東洋人の男子だが、ひとたび口を開くと漫才の「ボケとツッコミ」を一人で演じるような言動で煙に巻かれてしまう。

*カリフォルニア巻:その当時、日本でも知られ始めたらしいが、個人的にはその時初めて味わったせいか、その斬新な味とデザインに感動した。様々な変種があるようだが、私がご馳走になったのは、手巻き寿司タイプのコーン型で、具は確か、アボカド、サーモン、カニカマ、キュウリに、たしかカイワレが少々巻き込んであったように記憶している。トッピングには金胡麻が振りかけてあったと思う。

 

 

また話がそれたので戻すと、アメリカの大学らしく教師のエヴァリュエ―ションみたいのが学期末にあって、その日本語の先生の評判はすこぶる悪く、親しくなったある白人の男子生徒は「“Too much BULLSHIT in the class!”と書いてやった」と吹聴していた。(なるほど”bullshit“は不可算名詞だから”too much”なんだなと理解した。)ただ、その先生は私にとっては日本語教育のキャリアへと導いてくれた恩人だった。ある日彼から「日本語教師を探しているところがあるので、やってみないか」と誘われた。その学校はたしかサンフランシスコ仏教会という日系人が建てたお寺に付属している桑港学園という日本語学校であった。そこには日系3世、4世が継承語を学ぶために多く通っているというが、私にあてがわれたクラスは非日系人の学生やビジネスパーソンだけのクラスで、ゼロ初級の初日の授業からであった。決まった教科書もシラバスもなく、何をどう教えるかの研修もなく、もちろん当方にも何の予備知識もないところに、「来週からできますか」みたいな面接で、「できます」と言わなければどうしようもなかった。

 そこからの一週間、私は大学の図書館に通い詰めで、日本語文法や、日本語の成り立ちに関する本を探しまくった。Japanese Languageと書いてある本は残らずチェックして、インチキっぽくない解説を抽出し、そこから自分なりの「日本語の文法システム」を「再構築し」、項目別に解説していくシラバスのようなものを考え出した。中で最も「役に立った」のは久野暲のThe Structure of the Japanese Language*だったが、それが古典的名著だということも知らず、久野の研究が日本語研究史上どのような位置づけにあるかなど知るべくもなかった。ともあれ、それに基づいて英語による日本語文法の解説を毎回、中古のタイプライターで打ち込んでコピーを配布することにした。言うまでもなく、毎回自分にとって新たな発見も多く、平たく言うと「知らないことばっか 」だったので、その作業には膨大な時間と膨大なタイプ用紙が必要だった。しかし、どうにかこうにかそれらを片言の英語の解説にでっち上げ、それを残らず学生に覚え込ませようという、無謀で無策で無駄な3M授業を行った。文法以外の学習項目などは全く頭になかった。

 久野(くの)(すすむ)The Structure of the Japanese Language:変形文法の考え方で日本語文法に光を当てた著者の代表作。ウィキペディアによると、「伝統文法が伝えてこなかった日本語文法の側面を明らかにした」革新的著作とのこと。畏れ多くも、そんなこと知っていたら、あのような大それた切り貼りの材料になどできなかっただろうに。

 授業では配った紙を読み上げ、説明が舌足らずと思われるところ(だらけだったが)はジェスチャーなどでごまかし、とにかく、プリントに書いたことをなんとか時間内に読み終わることで必死になっていたため、学生たちの顔など全く見ていなかった。残り10分の時点で、おそらくあと1時間あっても終わらないだろうと薄々わかりながら、そのまま授業終了のチャイムが鳴るまでプランの修正など何も打つ手はなかった。授業が終わって気づいたことは、「そういえば、この一時間学生たちのだれ一人として一言も言葉を発していなかったな」ということであったが、その「気づき」は次回からの改善にはつながらなかった。ただ「何も質問されなくてよかったな!」という安堵感と虚脱感のみがあった。

その後も毎回授業の前の日は徹夜で、たいていはその朝の授業開始前20分の時点で、ようやくタイプしたプリントが完成、朝食も取らず、所要時間15分の道のりをエンジンにひびの入ったフォード・マーベリックを駆って、教室に向かったものだった。学校に着いたら人数分のコピーをとらなくてはならない。(1980年代初頭のコピー機というものがどんなものか皆さんはご存じだろうか)「もう駄目だ、今日は準備が間に合わない」と実際に何度も思ったし、授業日の前夜は何度も、うたた寝の中で「だめだ!もう開始時間だ、準備が何もできていない!!!」というナイトメアーを何度見たことか。

そんな日々を続けるうち、自分の中で“誓い”というか、個人的なルールというか、心に決めたことが一つある。それは「どんな下手な授業でも一生懸命やれば、一生懸命やっていることだけは学生に伝わるはずだ。そこのところは絶対に崩さないでいこう」という人に言うにはあまりにも恥ずかしいものだが、これには「…それでもどうしても準備が間に合わないとか、今日は授業ができないという日が来たら、一生に一回だけ、という条件で、『ごめんなさい。今日は授業ができません。』と学生に謝っちゃうことを自分に認めよう」という特約条項(?)が付いている。しかし、幸いなことに、40年後の今日にいたるまで、この一生に一回だけの特約は未だに行使していない。

その後、さすがにあのようなアホな授業は行わなくなったが、例の“誓い”だけは40年後の今も持ち続け、それが教師をやっている自分の心の支えになっている。(本当です)

 

コメント

  1. 2023新年おめでとうございます。ブログ『忘れられないあの教室』は海外で日本語を教えた経験やそれにつながる体験をみんなでシェアする場です。みなさんからのコメントや投稿をお待ちしています。

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  2. Kota Takashima2023年3月11日 1:25

    確かに一生懸命に授業をしている姿は、学習者に伝わるものですよね。私も若手時代の姿を思い浮かべました。

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    1. 別の言い方をすれば、何とか今日の授業を無事にやりとげようと必死なんですよね。

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