「日本語教師、危機一髪」2

   #忘れられないあの教室 #バングラデシュ #1990 #HOSHI TORU

忘れられないあの教室⑶「日本語教師、危機一髪」2

ダッカでの生活に関しては、いろいろな事がありすぎて1回や2回ではとうてい書ききれない。ダッカに滞在した2年間に私の身に起こった事や目の当たりにした事をすべて語りつくすには相当な紙数を要するだろう。ともあれ、ダッカの町は、摩訶不思議な「あり得ないこと」に充ち溢れた、まさに(皮肉な言い方ではあるが)“ワンダーランド”なのであった。

毎日の通勤時、自家用車で走行中にいろんなものが目に入る。(若干ためらいつつ)1例を挙げれば、日常的に死者のいる風景というか、日本では一生のうちにほとんど目にすることの無い情景、死体や、生きてはいるが異様に変形した肉体、人によって部位は異なるが、日本ではもう死語になってしまった種々の差別用語を用いてしか言い表せないような肉体が散在しているのである。それはイギリス植民地時代に虐待された人、パキスタン時代の内戦や、独立後の政情不安による治安の悪化、イスラムとヒンドゥーの対立による宗教紛争、飢餓と貧困による弱肉強食の略奪や暴力、それに加えて社会のインフラの未発達と国民に対する危機管理政策の不在による事故や自然災害、疫病等々の犠牲者たちなのだ。こういう現実を見慣れていない日本人にとっては、つい目を背けてしまう衝動に駆られるが、目を背けることは、おそらく相手の人間としての尊厳に目を背けることになるのではないかという強い異議申し立てが心の中で起こり、仕方なく、それら(彼ら)を直視することになる。この国に住んでいると、自我の内に、言わば「モラルの闘い」ともいうべき葛藤が起こるのだ。

その葛藤は、交差点で車を停止するときにピークに達する。赤信号で停車した車をめがけて大勢の人々が一瞬にして、どこからともなく集まってくる。その人たちがわれ先に車窓から手を突き入れてボクシーシ*をねだってくるのだ。中には「腕のない手」を差し入れてくる人もいる。小学校(に行けたなら)低学年ぐらいの女の子がいる、赤ん坊を連れた貧しい母親がいる。(噂によると、そうした赤ん坊は多くの場合、実の我が子ではなく、物乞いの小道具として誰かから借りてきたものだという。)ただし、彼らがいかに孤児や貧しい母親を装ったとしても、彼らが貧しく、明日を生きる糧すら無いのだということは紛れもない真実であろう。彼らは口々に“One taka! One taka!(1タカ!1タカ!」)と言って手を出してくる。タカはバングラデシュの主要通貨で当時のレートでは1タカ=4.5円程度であった。当然、円建てで報酬を受けている国際交流基金専門家にとって、相手が何人いようと出せない金額ではない。こうした場合、「持てる者は持たざる者に施しを与えよ」というイスラムの戒律に従い、何のためらいもなく、突っ込まれた多くの手の中のどれかに1タカ札を12枚握らせてさっと車を発進するのが現地流で、自分もそれに従えばスマートにその場を切り抜けることができるのだが、それがどうにもできない。なぜできないのか。それを何度も自分に問いただした。

ボクシーシ片仮名では「バクシーシ」と書くのが一般的らしい。中東から広くイスラム圏やインド文化圏などに伝わった慣習で、物乞いに対する「お恵み」だけではなく、「喜捨」から「チップ」、「賄賂」などをも包括する概念。金品を与える側は「富めるものが貧しいものに施しを与える」ことで「徳を積む」ことができるため、受け取る側もその善行に貢献する役割として当然のごとく、全く悪びれずに要求する。

「だれか一人に与えれば、他の人々が自分たちにもくれと要求して来るだろう。奪い合いになって収拾がつかなくなるかもしれない。だからと言って、もし何人もの人に与えれば、あそこは気前がいいぞと、勢いづいて、さらに多くの人々が向こうから押し寄せて来るかもしれない・・・」そういった恐怖心が理由のひとつであることは否めない。だが、心の中ではそれとはまた違った葛藤が始まっている。「安易に金を与えて、その場を切り抜ければそれでいいのか。それは偽善ではないのか。自分がここで、一人の人に金を与えてもその人はこの生活から抜け出せるわけでは絶対にない。しかも、金をもらえなかった他の人々のことは考えなくていいのか。そして、この場にいない膨大な数の貧しい人々のことは?・・・今この瞬間にも何千と言う人々が、子供たちが、飢えで亡くなっていく・・・日本では公共広告などでよく耳にするフレーズだが、それは今ここで実際に起こっていることなのだ。一体、自分はこの国にいて、この人たちのために何ができるのか。その答えは「何もできない」である。

それならば、自分もまた、この最貧国の社会システムに組み込まれて、毎日だれか一人に1タカを供給する役割を担っていけばいいのだろう。それが最も正しい結論なのだろうが、それに自分を納得させることがなかなかできない。結局、それ以来、(『卑怯者!』と言う内なる非難に耳をふさいで)交差点ではあえて車の窓を閉める*という選択肢をとることにした。こうして、毎日、自分の人間性に辛い問いを突き付けられ、町で出会う全ての人は物乞いであるというトラウマに陥り、ダッカに着任当初は外出恐怖症にすらなった。

*車の窓を閉める:自家用車といっても、先々代の派遣専門家が7、8年前に(おそらく中古で)入手したダイハツ・シャレードで、派遣専門家が運転手付きで代々引き継いでいる。エアコンの装備などは当然なく、窓を開けて走行するのが普通。窓はハンドルをクルクルと回して開閉する。このようなポンコツ車に運転手付きというのはちぐはぐなようだが、ダッカの交通事情は到底、まっとうな日本人ドライバーの手に負えるものではない。筆者も諸般の事情で運転手を首にするまでは自分で運転しようとは思わなかった。

とにかく私が滞在していた当時のダッカの町は、死者や傷病者、孤児、餓死寸前の人々で充ち溢れていた。ダッカだけではない。新聞の一面は毎日、バスやフェリーの事故による犠牲者のカラフルな遺体写真で「飾られ」、洪水になると毎年決まって数十万人の人が死ぬ。しかも、死者が数十万なのか数万なのかはおそらく政府で把握していない節がある。それなのに、政府高官やその他の特権階級、私なども含む裕福な外国人は、こうした現実から隔離された地域に住み、安全な手段で移動し、希少な食糧や物品をいつでも容易に入手できるのだ。当然、洪水なんかで死んだりなどしない。こうした現実を知るにつけ、『この国では命の値段(重さ)に格差があるのだ』と思わざるを得なくなる。


さて、話が重くなりすぎてしまったが、ダッカにも笑顔や青空がないわけではない。貧しくても笑顔を絶やさない人々だって大勢いるのだ。ダッカに住み始めのころ、カメラを持ってダッカの町を散策したことがあった。たまたまたどり着いた人気のない(と思われた)とある広場でモスクの写真を撮ろうとカメラを取り出してファインダー*を覗いた途端、びっくりして腰を抜かしそうになった。なんとファインダーの中には、一体いつどこから現れたものやら、十数人の子供たちが満面の笑みをうかべて、早くシャッターを切れとばかりにこちらを向いていたのだ。あの沢山のニコニコの顔は、数十年たった今も忘れない。

*ファインダー:デジタルカメラなどの存在以前で、カメラといえばファインダー付きの光学カメラの事。

もう一つ忘れられない出来事は、ある日の帰宅途中に、普段と違う道を走ってみようと思い、愛車を駆って()町はずれの田舎道に乗り入れたときだった。道はだんだん細り、ついに田んぼのあぜ道のようになってきた。「しまった。なんとかUターンできないものか」と思ったが、時すでに遅く、田んぼの端っこに、絵にかいたような見事な脱輪をしてしまった。ところが、途方に暮れる間もなく、どこからともなくゲラゲラゲラと笑う声がしたかと思うと、十数人の村人らしき男たちが表れ、全員で「えいやっ」と車を担ぎ上げ、数メートル先の広くなった道まで運んでくれたのである。私は「これは助かった。ありがたい」と思うと同時に、この人たちにいくらずつボクシーシを渡したらいいかを考えていた。浅はかにも「当然彼らは対価を求めてくるだろう。相手が外国人だとわかって、『しめた!』と思っているに違いない・・・」などと考え、頭の中で、一体何人分のお札が必要なんだろうと車を担いでいる人を目で数えていた。しかし、そんな私には目もくれず、村人たちは、もう大丈夫とばかりに、さっさとどこかへ散って行ってしまったのだ。私は帰途、車のハンドルを握りながら、自分と言う人間はなんという心根の狭い、あさましい人間なのだろう、それに引きかえあの村人たちは何と気高く誇り高い人々なのだろうと考えていた。

このような体験を何度も経ながらもなお、先入観に植え付けられたバングラデシュ人に対する私の猜疑心はなかなか拭いされなかった。ある日、なぜだったか理由は思い出せないが、リキシャ*体験と言うか、車ではなくリキシャに乗って出かけたことがあった。その日、ダッカに来て初めて、と言うより、それが最初で最後だったと思うが、大学までリキシャで行くことにした。帰りは専属の運転手が迎えに来てくれる手はずで、片道だけリキシャに乗ってみることにしたのだ。

リキシャ:リキシャはダッカの下町での主要な公共交通機関、いわゆる「庶民の足」である。バングラデシュだけでなく、南アジアや東南アジアの各国で人力タクシーが「リキショー」とか「リキシャ―」とか呼ばれているのは間違いなく日本語の「人力車」からの輸入語だと思われる。ちなみにバングラデシュでリキシャをつかまえるときは「オイ、リキショー」と呼ぶ。これは日本語風に「おい、力車!」でも十分通じる。ただし、日本の人力車とは違って、ダッカのリキシャは走って引っ張るのではなく、自転車で引っ張るスタイルである。このリキシャはダッカの町の風物詩の一つで、特に旧市街の通りに車で迷い込むと、リキシャの大渋滞に巻き込まれ、蟻地獄にはまった昆虫のように文字通りにっちもさっちも行かなくなる。当時バングラデシュに交通法規というものが存在していたのか不明だが、仮に存在していたとしても、リキシャは(牛や歩行者同様)その法規の適用対象外であったに違いない。彼らは常に自分の行きたいほうへ進み、停まりたいところに停まる。逆走も急転回も急停止も自由自在、逆に、後ろに急ぐ車がいようがいまいがお構いなく自分のペースでのんびり進む。まあ、地球上のあらゆる生物同様、気の向くままに、自由に地上を移動できる権利を有しているだけだ。

無事に目的地に着くかハラハラだったが、そこは問題なく無事に到着。さて降りる段になって料金の交渉をしなければならないのだが、「リキシャ引きは外国人とみるととんでもない値段を吹っかけてくるから気を付けろ」と周囲から散々吹き込まれていた。家から大学までは大体20タカから25タカが相場で、30と言われたらかなりぼられていると思ったほうがいい…というような情報もインプット済みであった。果たして、リキシャ引きが提示した金額は『パンチッシ』だった。それは50と言う意味だと思い込んだ私は、あえて毅然とした態度を繕って、『いやいや、トリッシュ(30)だ。』と言い張った。実はバングラ語で50は「ポンチャッシュ」、彼の言った「パンチッシ」は50ではなく25であったのだ。それに対して『トリッシュ、トリッシュ、30にしろ』と言い張る私を見て『いいよ』と首を傾けて頷き*ながらにんまりしたそのリキシャ引きの目は『おお、なんと心優しい外人のお客様だろう!』ではなく、紛れもなく『このあんぽんたんの外人野郎はこんな計算もできないんかい!』と語っていた。それ以来私は、日本語の初級者で、なかなか数詞を覚えられない学生に対して、以前よりも理解を持って接するようになった。

*首を傾けて頷く:インド文化圏では、頷くのは頭を前にではなく、横にギクッと傾けるしぐさであることは、最近では日本でも知られるようになってきた()が、逆に日本人がインドやバングラデシュに旅行に行ったとき、答えに迷って首をかしげると、“Yes”の意味にとられてしまう恐れがあるので要注意である。

いやはや、ダッカでのエピソードの渋滞に巻き込まれて、なかなか本題に入れない。次回こそ、ダッカ大学の日本語教室のお話をしようと思います!

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