「日本語教師の夢の授業」

 #忘れられないあの教室 #韓国ソウル #2000年 #HOSHI TORU

忘れられないあの教室⑵日本語教師の夢の授業」

 唐突ですが―日本語教師も夢を持っていいのではないでしょうか。

 仮にだれか日本語教師をつかまえて、「もし、どのようにでも思い通りの授業ができるとしたら、どんな授業をしてみたいか」のような問いを投げかけてみたら、どんな答えが返ってくるだろうか。おそらくは、「学習者のニーズを的確に把握し、学習者の自律を助け、効果的な指導技術を身につけ、楽しい授業を心がける・・・」みたいな、「良い教師」としての到達目標を高々と掲げる人が多いのではないか。『つまんねえ奴だなあ。』とどこかの5歳児*に言われそうだが、かく言う筆者も、あらたまってそんな質問をされれば、同様に「つまんねえ」答えをしてしまいそうである。もっと裃を脱いで、肩の力をぐっと抜いて、ありのままの自分をさらけ出して、生徒/教師の垣根を取っ払って対等に楽しめるような授業があったら、なんと楽しいことだろう。
 *NHK総合テレビ放送の『チコちゃんに叱られる』のメインキャラクター「チコちゃん」の決め台詞。

そこで、そのような夢の体験がなかったか、自分の過去の経験を紐解いてみると、それにかなり近い実践現場が、実はあったのである。それは今を去ること20年余り前、ミレニアム元年に湧く、韓国はソウルでのことである。

ソウルの鍾路(ちょんの)区には、かつて日本大使館に付設された在韓国日本大使館公報文化院、通称『日本(イルボン)文化院(ムナウォン)*という施設があった。いやいや失礼、公報文化院自体は今でも現存しているのだが、そこで行われていた日本語講座はすでに廃止されて久しいのである。公報文化院はその名の通り、韓国における日本文化情報の発信源であったわけだが、ちょうどサッカーの日韓ワールドカップが行われた2002年に国際交流基金のソウル文化センターができてからは、さまざまな企画で一世を風靡したかつての栄光は薄れ、基金センターとの微妙な住み分けを余儀なくされているらしい。         

*現在の公報文化院については<https://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=2036>参照



私の記憶に残っているのは、ほぼ常設と言っていい日本映画上映会であり、そもそもここで上映された映画は、往年の名作と呼ばれるものが多く、特に何十作もある『男はつらいよ』(いわゆる「(とら)さんシリーズ」)*を年に何度もやっていたことが思い出される。いうまでもなくこうした映画はお年寄りに人気が高く、毎回の上映時間前には3階のホールに続く狭い階段に、1階の入口の外から延々と続く、平均年齢60代ぐらいと思われる韓国人善男善女の列が延々と続いていたのが鮮明に瞼に浮かぶ。                  

*1969年から1995年にかけて48作られた渥美清主演、山田洋二監督の人気映画シリーズ。「寅さん」は主人公車寅次郎のニックネーム。

それより少し若い世代にとっては、「公報文化院と言えば日本語講座」と言うほど、韓国国内で広く知られていたのが、他ならぬ在韓国日本大使館公報文化院日本語講座なのである。この日本語講座は1977年に国際交流基金から派遣された日本語教育専門家によって開設されたものだが、その後基金派遣の専門家と韓国在住の日本語講師によって代々受け継がれていた。

私が担当した1999~2002年当時は、受講希望者600人の中から約100120人程度に絞り込む選抜試験を行っていた。このような狭き門を潜り抜けて入学してくる生徒たちは、いわゆる上級者ばかりで、当時の日本語能力試験1級(現在のN1)合格者が多数を占めていた。これだけを見ても韓国という国の日本語学習者の裾野の広さはわかろうというものだが、だれもが様々な日本語学習経験を持ち、中には日本留学経験者や日本在住経験者も多かった。したがって彼らの多くは、ほとんどの日本語教科書の内容は既習または既知であり、ほとんどが一般成人であり、日本語の学習目的は「日本語能力の維持」(日本語を忘れないため)が大半を占めていた。

「このような学習者群を前にして、一体何を教えればいいのだろうか!」おそらくは代々の講座担当者は同様に思い悩み、その結果、徐々に出来上がったであろうカリキュラムというものは、なかなか他では類を見ないものであった。クラス編成は「新聞・ニュース班」 「映画・ドラマ班」、「リーデイング・ライティング班」、「総合研究班」、「上級班」と言ったラインアップで、「技能別」でもなく、「トピック別」でもなく、いわば「ジャンル別カリキュラム」とでも言うようなものだった。このうち「上級班」のみは学習レベルを示し、この文化院講座の中では最もレベルが低い(!)クラスであった。「上級班」以外は、どのクラスでも教科書は使わず、いわゆる生教材の中でも「本生(ほんなま)」中の「本生(ほんなま)」、リアルタイムの新聞記事やニュースの録画や映画、ドラマのビデオなどをそのまま使用していて、著作権的には常に綱渡り、しばしば綱を踏み外していたと思う。

 まあ。言ってしまえば、日本語教師としてやりたい放題であり、縛りと言えば、その担当の「ジャンル」で勝負するという点だけで、あとは何を持って来ようが自由、料理の仕方も自由である。ただし、超上級レベルの学習者の目はそれなりに厳しいわけで、いい加減なことをしては、それなりの評判が立ったり、欠席者が続出したりという結果になる。また、各学期に1回、研究授業週というものがあり、講師は持ち回りで他講師の授業を見学し、かつ授業担当講師はその日の自分の授業をまるごとビデオ録画し、後日全講師の前で公開して、授業の意図を解説し、質疑応答を行い、コメントをもらうという仕組みになっている。これは何代前の担当者の発案かわからないが、おそらくは何年もかけて改良されてきたものらしく、「録画は生徒目線で撮ること」が義務付けられているところなど、非常によく練られている。実はこの研究授業は、授業の出来不出来だけでなく、ある意味、自分の日本語教師としての在り方を俎上に載せるわけで、怖さはもちろんあるのだが、それを自らの目で客観的に見ることができ、さらに他講師からの率直な評価も聞くことができる貴重な機会なのであった。まさにこの日本語講座は、授業をゼロから計画し、準備し、「目の肥えた」高いレベルの生徒の前で実践し、研究授業において評価、省察するという、いわゆる“Plan-Do-See”の実践の場なのであった。

 そして、何よりも授業そのものがこの上なく楽しかった。雑誌記事にせよ、映画やドラマにせよ、自分の趣味の領域と「お仕事」の間の一線を踏み越えて、自分の好きな素材を持ってきて、その面白さを生徒たちに紹介できるし、その場その場で、(教師としてのトークという縛りを外して)話したい話題で(生の)おしゃべりができる。もちろん、生徒たちは、必ずしも100%理解してくれるわけではないのだが、ある程度の類推力を発揮できる日本語力を身につけている生徒が大半であり、日本では黙殺されてしまうような「おじんジョーク」にも反応してくれるし、生徒-教師間で一方的でないツッコミの応酬ができる。何よりも、本物の日本語話者として決して使わないような変な日本語を教えなくてよい。そして、「人格者であり、深い知識があり、賢明でかつ優しい日本語教師」という仮面を被らなくていいのだ。こんな授業が他所で出来るだろうか。ある年の私の研究授業を見学してくれた同僚の先生からいただいた『本当に面白かったです。生徒たちは、先生のおしゃべりが聞けると言うだけで、授業料を払う価値がありますよ。』という誉め言葉は、(もちろん社交辞令の部分を差し引いても)私にとって一生額縁に入れて飾りたいような勲章であった。

公報文化院での、私の最後の担当クラスは「映画・ドラマ班」だった。約20名の生徒はなんと全員20代~40代の女性のみであった。その学期の最後に見せたのは『波の数だけ抱きしめて』*という青春映画で、たぶん公開時にはあまり評判にならなかった映画だと思われる。ストーリーは、ある夏の湘南海岸に集まった数名の若者たちが、ローカルなアマチュアFM放送局を立ち上げるという話で、夏の海岸の雰囲気と、「ベタな」青春の恋模様が満載で、この「ベタさ」が分かりやすくて、ウケるのではないかと思い採用した。劇中何度も登場するDJ(ディスクジョッキー)による放送をモデルにして、学期末プロジェクトとして「DJになって、音楽付きの3分の放送を考え録音する」という課題を課した。生徒たちは文字通り嬉々として、楽しみながら制作してくれた。全員出してくれるかなと不安だったが、杞憂であった。出来上がったものは、日本語によるトークの自然さこそ個人差はあるが、全員の個性が滲み出たものであり、また彼女たちの当時のJ-Popsに対する造詣の深さもよくわかるものだった。私は提出された録音を全員分つなぎ合わせ、カセットテープにダビングして、卒業記念として全員に配った。私自身用にも作ったコピーは今でも大切に保管しているが、不幸にして最近は聞き返す機会(および機械)がほとんどない。                 

*1991年に公開されたホイチョイプロダクション制作のバブル期を代表する青春映画3部作のうちの一つ。主演は中山美穂、織田裕二。3部作の他の2作は『私をスキーに連れてって』、『彼女が水着に着かえたら』

 

 そして、2002年の春、四半世紀にわたって続いた在韓国日本大使館公報文化院日本語講座の幕が下ろされた。名誉なことに、私が幕引き役を仰せつかり、日本映画上映会でおなじみの公報文化院ホールで閉校式が行われた。講座の枠組みは、新設なった国際交流基金ソウル日本文化センターへと移管され、幸いソウル在住の講師たちもそちらに異動することになった。移動した講師たちの力で、当初はかつての講座の面影を残していたらしかったものの、当時、日本語教育のスタンダード化を推進していこうとしていた国際交流基金の方針上、「コース目標の不明瞭さ」や「コースデザインの質的妥当性」、「科目間の整合性」、「評価の不明確さ」等々が問題視され、しだいにより先進的なコースデザインへと改善されていったようである。日本文化院講座のこれまでの25年の歩みは、スタンダード化にそぐわない日本語教育、いわば、「絶滅危惧種」の日本語教育として、しだいに忘れられていったのである。その証拠に、今回このブログを執筆するにあたって、細かい点を確認しようとして公報文化院講座の情報をあちこち漁ってみたのだが、「どこにも記録がない!」ことが分かった。国際交流基金の資料にも「公報文化院から日本文化センターへ日本語講座が移管された」という1文しか見当たらなかった。

 というわけで、この記事をお読みいただいている方の中に、もし日本文化院の日本語講座をご存じの方がいらしたら是非ご一報を!


コメント

  1.  非常に興味深く拝読しました。

     これだけ長期にわたる、それも私たちの税金を使った大きな日本語教育の活動が「絶滅危惧種」というのは、残念というか、あってはならないことというか、重要な問題だと感じました。
     大切なことが、いわばミッシングリンクになってしまって、後世に残らず、同様の過ち(愚かさ)が繰り返されるというのは国際的な協力活動を考えるうえでも非常に残念です。
     世界中のあちこちに、日本語教育関連で検討すべき資料からこぼれてしまっているこのようなミッシングリンクが多くあるはずです。それをひとつでも多く探して、拾い集め、“記録”したり“再構成”したりしていくことが不可欠なのではないでしょうか。

     
     それにしても、韓国で「受講希望者600人の中から約100~120人程度に絞り込む選抜試験」というのはすごいですね。「超上級レベル」の日本語教育の実践として貴重だと思います。
     また、研究授業の資料として、「授業をまるごとビデオ録画し」、「録画は生徒目線で撮ること」が義務付けられているというのも、真っ当であっても難しい方法だと思いますが、これも韓国だからできたのでしょうか?

     「目の肥えた」高いレベルの生徒の前で実践し、研究授業において評価、省察するという、いわゆる“Plan-Do-See”の実践の場」とありますが、そういう実践記録、授業分析こそ、残していただきたいです。

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    1. ありがとうございます。これを書いていて、自分のこんなにも間近に、自分の歩いて来た道の水際まで、そのミッシングリンクが迫ってきたことにショックを禁じえません。ミッシングリンクがやがてブラックホールになってしまうのでしょうか。Cotoneさんのおっしゃる「書き残す事」の重要性というより緊急性に改めて気付かされました。私だけでなく、皆さんの身の上にも同じ事が起きているかもしれません。是非是非、少しでも多くの記録を残して行っていただきたいです。そのためのフリースペースとして、このブログを利用していただけたらと思います。

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  2. Kota Takashima2023年3月11日 1:30

    自分で素材を調理して授業で提供するというのはかなり自由度が高いですね。ですので、教師の興味関心なども存分に発揮できる授業だったのではないかと思います。そのシラバスを見たら、刺激的でわくわくするようなスケジュールだったのではないかな、と推察いたしました。

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    1. そうなんです。当初は何をやろうか大いに悩むんですが、ひとたび方針が決まると、どんどんやりたいことが出てきたと記憶しています。生徒さんのほうも何となくワクワクして教室に来てくれてたんじゃないかなと勝手に思っています。

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