「日本語教師、危機一髪」3

    #忘れられないあの教室 #バングラデシュ #1990 #HOSHI TORU

忘れられないあの教室⑶「日本語教師、危機一髪」3

さて、私が日本語を教えていた「ダッカ大学現代言語研究所」は、「現代言語研究所」という名前から来るイメージとは裏腹に、きわめて前近代的な施設であった。冷房設備がないなどの問題はやむを得ないにしても、たとえば、ある日聴解のテープ教材を使おうとして、カセットプレイヤーを自宅から持参し、いざ授業の準備をしようとしたが、なぜかカセットプレイヤーが設置できない。なぜできないのか、それは教室中探しても電源の差し込みが見当たらなかったからであった。見当たらないだけではなく、存在しなかったのである。つまり、ダッカ大学の、少なくとも現代言語研究所のどの教室においても、電気機器を用いた語学の授業というものは想定されていなかったわけである*

*研究所には旧教室を改装して作った視聴覚教室*1室あった。これは唯一電源のある教室でVTRセット1台が設置してあったが、通常の授業には使われていなかった。ちなみに、ある時、現代言語研究所長が誇らしげに、しかし何か含みのある口調で「日本政府は我々の研究所にLL教室を贈ってくれた。素晴らしい設備だが、今は管理する技師がいないので使われていない。階上の視聴覚室にあるから見てくるが良い。」というので、見に行った。その薄暗い教室の扉を開けて目に入ったのは、無残に打ち捨てられて積み上げられたLLブースの山だった。それは、あたかも映画『猿の惑星』のラストシーンの廃墟のようでもあり、見る者を戦慄させる光景だった。

        

全般にキャンパス内の建物の状態は老朽化の一語に尽き、雨季の長い高温多湿の気候に晒されながら、ほとんどの建築物は耐用年数の限界に達していたのではないだろうか。しかも、それらの施設の補修に対する予算措置はまずとられていそうもなかった。おまけに十数年来の「戦乱」によって、校舎は荒れ放題だった。教室や研究室の窓ガラスの破損は著しく、窓という窓にはガラスがないと言っても過言ではなかった。それが長年放置されていることが室内の老朽化を一層甚だしいものにしていた。

最も閉口したのはキャンパス内の衛生環境である。研究所には専門の清掃員がいないが、用務員として働く老爺がいて、簡単な掃き掃除は行っているが、拭き掃除は一切行っていない。一般にバングラデシュでは、というかインド文化圏では、水を使った拭き掃除の習慣はない・・・と思われる。しかし、破損した窓からの砂埃や、チョークの粉、天井から降ってくる煤などによって教室や研究室の什器はすぐに埃に覆われてしまう。これに閉口して、自分で拭き掃除を試みようと思い立ったが、必要な水が得られない事が分かり、以後断念した。キャンパス内は、上下水道はおそらく完備されているはずだが、手を洗うのに十分な量の水はどの蛇口をひねっても出てこない。トイレも一応水洗なのだが、水はおそらく数年来流れたことはなかったのではなかろうか。皆さんは長い年月流れていない水洗トイレの臭気と言うものが、いかに強烈な物かご存じだろうか。しかもあの研究所のトイレは、水が流れなくなった後も複数回(目一杯)使用された形跡があった、私は着任当初、トイレを使おうとしてドアを開けて中を見て断念して以来2年間、二度と大学内でトイレに行かないことにした。研究所内で移動する際も、トイレの前の廊下は極力迂回するようにした。

        

教室の照明は薄暗く、多くの電球は切れたまま放置されており、日没が近づくと学生の顔も見えなくなり授業を継続するのが困難になる。すべての教室には天井吊り下げ式の扇風機が各部屋に数基設備されており、故障しているものもちらほらあるが、幸か不幸か各部屋のいくつかは稼働している。これが唯一の空調設備であるからには、ちゃんと回ってくれないと困るのだが、これが想像以上の騒音を発し、こちらの声が学生にちゃんと聞きとれているのか常に不安を抱えながら授業を進めることになる。かくして薄暮の時間になるとキュルキュルと回る扇風機の音のみが暗がりの教室を支配し、学生たちがまだそこに居るのかいないのかも覚束なくなる。

そして教室や研究室にあった黒板たるや、文字通り単なる黒い木製の板であって表面はざらざらというか凸凹と言うか、「チョーク泣かせ」とでも言いたくなる代物である。一方のチョークはといえば、これがまた敵もさるもので、運動場に白線を引く石灰の粉を固めて棒状にしたようなもので、この両者が(あい)(まみ)えると、3分程度の板書であっという間にチョーク1本が消滅してしまう。それにチョークのストックも潤沢にあるわけでもないので、いきおい板書も遠慮がちになってしまう。

          

しかしながら、ダッカ大学で日本語を教えることの最大の障壁は、こうした設備面の問題とは全く別のところにあった。同国は独立以来不安定な政情が続き、ストライキ、デモ行進、座り込みなどの民衆運動が日常化していたが、これが焼打ちや死傷事件に発展することも稀ではなかった。しかもダッカ大学のキャンパスは過激派学生を中心とした政治運動の活動拠点となっていたためか、こうした過激な反政府運動の大半はキャンパス内かキャンパス周辺で展開されていたのだ。

こうした暴動が起こるのは深夜から早朝であることが多く、仮に午後までかかるとしても、たいていは午前中に何らかの事件が発生しているため、日本語の授業開始時刻(午後3時)までには既にキャンパスや周辺道路が閉鎖されていることが多かった。そのおかげで、私自身が出勤時に暴動に巻き込まれることは幸いにしてほぼなかった。「ほぼなかった」のだが、一度だけ、私がのほほんと授業を行っている最中に、どこかかなり近い場所で、何かの爆発音のような音がし、一人だけ出席していた学生がすかさず、「先生、危ないですから、帰りましょう」と言って立ち上がった。私は何のこっちゃと思いながら、学生の顔つきを見てようやく、自分たちが今深刻な状況にいるのだということを理解し、彼に導かれて外に出た。出口までくると、家の運転手が私を探しに来ていて、急いで車に乗り込み、結局何事もなく難を逃れることができた。そういえば今日授業に来ない学生が妙に多かったのは何か情報があったのだろうとその時になって思った。今思うとあれは人生で何度もない危機一髪の事態だったのだと思うが、平和な日本に住み、日本語教師などという平和な職業に就いている人間には、戦場のただ中にいてさえも、命の危険とはどういうことなのかが理解できず、危機意識というものが一向に湧いて来なかったのだ。くわばらくわばら・・である。

        

私が赴任した当時、バングラデシュの政権は将軍であったエルシャド大統領が(のちに失脚したが)掌握していた。当初は軍政であったが1986年に民政に移行したとたんに反対勢力が活性化し、しかも2大野党間の抗争もエスカレートし、三つ巴の争いが続いていた。このような最悪の政情のなかで国民生活は困窮を極め、食料品の不足、物価の高騰、働いても報酬がもらえない等々の理由で、サボタージュや暴動、ホルタル*と呼ばれる一斉ストライキが日常的に勃発していた。ストライキといっても日本での労使間交渉のようなものではなく、反政府勢力の一斉蜂起のようなもので、商店や学校、企業、交通機関(というかリキシャ以外の乗り物)は強制的に活動を停止させられ、これに従わない商店などは焼打ちや略奪に遭い、通りに停められていた乗用車やバスは横転させられ、窓をたたき割られたり燃やされたりする。当然これを鎮圧しようとする警察や軍隊などとゲリラ戦になり、多くの死傷者が出る。また、選挙の時期になると、反政府運動に加えて、対立政党間の抗争が起こり、政府は頻繁に外出禁止令や戒厳令を発令する。キャンパス内でも学生リーダーの選挙期間や学生集会などがあると、同様の事態に発展する。

*ホルタルと言うのはいわゆる「ゼネラル・ストライキ」に当たる活動で、主にインドやバングラデシュ、スリランカやネパールなど南アジアに共通する反政府運動。政治的アピールを行うだけでなく、商店や学校、オフィスなどの業務を停止させ、列車やタクシー、バスなどの交通機関の営業も一斉に自粛させる。

教師や学生の身の安全はともかく、こうした混乱が日本語課のコース運営に与える影響は深刻であった。頻繁な大学閉鎖や当局による強制休講、および自然休講によって、カリキュラムの進行がズタズタに分断される*。当然の結果として、受講生の足並みが乱れる。事実、大学が閉鎖されるたびに出席率は加速度的に低下し、大量のドロップアウトが出る。こうした非常事態は言うまでもなく突然起こるものであるし、交通・通信の未発達のため学生との連絡も一切取れない。大学から学生への唯一の通信手段はキャンパス内の掲示板だった。(あのころ携帯電話と言うものがあったらなあ・・とつくづく思う。)したがって、補講の予定を組むわけにもいかず、自習課題を課すこともかなわず・・・。

*私が勤務していた2年間の大学閉鎖、長期休講の日数に長期休暇や祝祭日までを加えて数えてみると、まるまる2か月間継続して授業が開講できたのは2年間で1回だけだった。ちなみに2年間の休暇および祝祭日の合計98日に対して、大学閉鎖、休講の合計は141日もあった。しかも、授業が再開されたからと言って学生がすぐに戻ってくるわけではない。大学が閉鎖された場合、学生寮からは全員退去しなければならず、26千あまりの寮生がキャンパスを出て、地方の実家や、市内の知人宅、親類宅に身を寄せるために大移動を行う。大学閉鎖解除の一報が新聞に出たら、今度は全員がキャンパスに戻り始め、全員が揃うまで最大1か月かかる。その間キャンパス周辺のみならず、市内の交通は混乱を極める。

かと言って、いつ授業が再開するかわからない状況で、のんびりと休養する気分にもなれない。教師としての緊張感が緩み始めたころに授業が再開し、ようやく授業が元のペースに戻ったか戻らないところでまた休講、こんなことの繰り返しで、学生のモチベーションどころか教えるほうの意欲を持続させていくのが困難であった。

         

このような状態が何年も続き、大学の運営は致命的に乱れていた。未消化の講義が累積し(いわゆるセッションジャム)年間カリキュラム自体が「有って無きにしがごとし」の状態だった。当時のバングラデシュの学士課程は3年制(4年で修士)であったが、当時の状況では入学から卒業まで6~8年はかかると言われていた。全過程を履修済みでも卒業試験がいつ実施されるか目途が立たないというケースも多かった。日本語の受講生の中にも「今、卒業試験待ちです。」と自己紹介する学生が多かった。ちなみに、同国の独立以来の貧困、人口過剰とならぶ社会問題として高い失業率があるが、大学卒の失業率は年々高まるばかりであった。つまり、家族の経済的犠牲の上に立って難関の最高学府に入学し、3年で卒業のはずが6年たっても7年たっても課程を終えられない。やっとの思いで卒業しても職がないというのが学生に突き付けられた悲惨な現実であり、この現実が学生をいやが上にも反政府運動へ駆り立てるという悪循環が起こるわけである。

        

さて、このような状況に日本語教師として身を置いてみると、日本国内の現場ではほぼ問われないような問いに直面する。「自分は一体、何のために日本語を教えているのだろう?」・・・あるいは学生たちに向かってその疑問をぶつけるとしたら、「君たち、日本語なんか学んで一体何になるんだ?」と言う問いである。

当時、同国でも日本語学習者の増加は目覚ましいものがあったが、その反面、日本文化に対する知識や関心は低く、学習動機としては、貧困と失業にあえぐ自国の現実からの脱出口として、当時アジアのスーパーパワーであった日本と何らかのかかわりを持ちたいというところが本音ではなかったかと思われる。日本語クラスの受講生の大半は受講動機として、異口同音に「日本で高等教育を受けたい」、「日本の先端技術を学びたい」と述べている。しかしながら、現実と理想のギャップは大きく、国費であろうが私費であろうが日本へ留学するルートと言うものは当時皆無に等しかった*。限られた若干名の幸運な若者が日本の(当時の)文部省奨学生として日本に招かれていたが、その選抜には有力者の推薦が優先され、必ずしも日本語学習経験は考慮されなかった。ODA絡みで進出していた日本企業は一握りの英語が堪能なホワイトカラーか、日本語能力を必要としない季節労働者しか雇わなかった。つまり、同国の現状では、日本語を学習することの直接的なメリットは何もないということになる。そこへもってきて、休講、閉鎖の連続で学習範囲は遅々として進まず、学習成果が一体どのようなものになるのかもわからず、学習を終えたからと言って即使える資格や技能が得られるわけでもなく、また、周囲に日本語を使える機会は皆無だ。

*前述のように、当時日本には「就学生」の名のもとに大量のバングラデシュ人が日本語学校に「留学」していた。ダッカの日本大使館には連日「就学ビザ」を申請する人々が押し寄せ、大使館職員ともみあいになったりしていた。しかし、彼らの「日本語学習経験」は書類上の事だけで、ほとんどの場合、実際に日本語を学習していたとは思えない。

それなのに、根気よく、というより我慢強く、日本語の授業を受けに来る学生がいる。その日のクラスに出席できるかどうかも、その日の治安状況や天候に左右されるのに。それでも日本語を学びに来るのはなぜなのか。かれらは、時には(誇張ではなく)「死と隣り合わせの教室に」命を懸けて学びに来るのである。感心するのは、クラスを休みがちの学生たちは、次の登校時に必ずといっていいほど、前の週の、あるいは何回分か遡って、クラスで使ったプリントをくれとせがんでくるのだ。そこまでして学びに来てくれる学生たちに、はたして自分はそれに見合う何かを提供できているのだろうか。という疑問が自分の中で重く沈殿していた。

         

その問いに対して何も答えを見つけられぬまま30年余りが過ぎた。今、振り返ってみると、貧困、政情、治安の問題、そして学習成果の非実用性、それは、実は彼ら学生にとって、日本語学習を行う上での妨げになどなっていなかったのかもしれないと思う。そんなことよりも、もっと個人的な「生きること」の文脈のなかで、彼らは日本語を学ぶことを選択していたのではないだろうか。学習者の傾向とか、社会の動向とか、就職率とかの統計的事実をならべてみると、当時のバングラデシュの悲惨な現実や閉塞した状況しか見えてこない。このような、いわば日本語教育をマスで見るというか、俯瞰的(鳥瞰的)に見るだけでは見えないものがある。視点を変えて、個々の学生、個々の現場、個々の生活を観察する視点(虫瞰的視点?)から見えてくるものがあるはずだ。それはきっとその個々の学生の生きることの意味と関係があると思う。なぜそんなことを考えたかと言うと、ダッカで出会った何人かの学生との関わりのことを思い出したからだ。その中の一人カリム君(正確な名前は思い出せないが)とのエピソードを紹介して、この稿を締めくくりたいと思う。

カリム君は私が赴任した最初の年度に最上級クラスに在籍していた。ダッカ大学の学生ではなく、年齢はおそらく30前後でダッカ郊外に妻子と住んでいたのだと思うが、どのようにして家族を養っていたのかは知らない。日本語コースの中で、おそらく最も熱心な学生で、出席率もよく、成績も優秀で模範的な学生であった。前年度に国際交流基金の成績優秀者研修に選抜され、数週間日本に滞在経験があった。日本語での会話も、(英語混じりではあったが)一般の日本人とのコミュニケーションに困らない程度の流暢さは身につけていた。彼の夢は日本人旅行者相手の通訳兼ツアーガイドになることだった。彼の年齢において、熱心に夢を語る姿に胸を打たれたが、その夢はかなり具体的なイメージを持って語られていた。彼によるとバングラデシュにも、ベンガルトラの生息地シュンドルボンを初め、知られていないだけで、数々の自然の名勝や、歴史的遺跡などもあるのだという。ただ、そこへ行くための道がないのだということだった。

私は彼の話に心は躍らせるものの、彼の夢が実現することについては懐疑的であった。彼も言うように、各地へのアクセスのための道路が整備されるまでには気の遠くなるような年数がかかるだろうし、そもそもバングラデシュには、隣国のインドあたりからは別として、海外からの観光客は皆無と言ってよかった。ある時、英字新聞の一面に『初の日本人旅行団がバングラデシュを訪問』という記事があって、びっくり仰天した。なにか特別の国賓か慰霊団か何かのグループかと思って、記事を読んでみると、訪れたのは年配の男女5名ぐらいの海外旅行好きの同好会で、『世界各地を旅し、もう他に行っていない国が無くなってバングラデシュに来た』のだそうだった。大使館を通じて引き会わせてもらおうかと思ったが、記事になったときにはもうとっくに出国した後だった。

         

ある日、カリム君が、『先生、一度ツアーガイドの練習がしてみたいので、お客さんになってください。』と言い出して、私も、たまにはダッカの外を見物してみたいという気持ちがあって、話が弾み、日程を決めて実現にこぎつけた。当日は我が家の運転手付きの自家用車に乗り込み、片道3時間ほどをかけてダッカ郊外の村を観光した。途中カリム君の住んでいる村を通過し、その時奥さんがこちらを見て手を振ったのを覚えている。だれが言い出したかは覚えていないが、外国人が見物しに来たとなると、何が起こるかわからないからという配慮で、車からは一度も下りなかった。途中、観光客向けの土産物屋や休息所があるわけでもないし、飲食ができるような店も、土地勘のない外国人の目で見た限り見当たらなかった。目的地の村の名前や、そこにあった小規模な遺跡の名前や、その遺跡が何であったのかはカリム君の説明を耳で聞いただけでは覚えられなかった。それでも、村の人々が普通に生き生きと生活している姿を車窓から眺めることができたのはよかった。貧しい暮らしではあっても、ダッカの街中の人々より幸福な日々を送っているように見えた。帰りはカリム君に些少のガイド報酬を払い、彼の住まいのある村の入口で別れた。一種のお試し体験ツアーではあったが、その日、カリム君の夢の第1歩は実現したのだ。その半日あまりの彼のガイド実践は、実は英語の比率がかなり高かったけれども、私自身も一日本人観光客として充実した体験ツアーをさせてもらったと感じていた。彼に払った報酬は決してお小遣い的なものではなく、プロとしての仕事に対する立派な報酬だった。機会があれば、もう一度どこかへ連れて行ってもらいたかったが、残念ながらそのチャンスは回ってこなかった。その後、カリム君に二人目のツアー客がついたのかどうかわからない。彼の夢の続きがどうなったのか今となってはわからないが、あのお試しツアーが彼の人生の中での何かのターニングポイントになっていたらいいなと思っている。 


















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